5月31日火曜日。曇り。朝は17℃、日中は24℃。昨日降り続いた雨はやっと上がりました。
昨日は終日冷たい雨の一日でとっても平穏でしたが、今日はその反動なのかやや混雑気味でした。雨の日には来れないお年寄りも今日は多数。かぜ症状の方も多め。
さて今日で5月もおしまい。チョッとネタが古くなってしまいましたが、5月1日の天竜浜名湖線の続きを今月中に片付けておかなければなりません。
掛川駅で新幹線から天竜浜名湖線に乗り継いで天竜二俣駅に着いたのが12時44分。降り立って駅前広場を見渡すと、向かい側に何やら蒸気機関車らしき物体が見えました。近付いてみると正しくC58型蒸気機関車の389号機でした。
車歴を見ると1946年7月に大阪の汽車会社で落成。苗穂、野付牛、北見、函館と北海道内で活躍したのちに本州へ戻り、1956年10月より高山、その後1969年10月から遠江二俣機関区で活躍。1971年4月に廃車になりました。
廃車後にここで保存されましたが一時は荒廃。2011年に修復されたそうですが、現在も残念ながら煙室ハンドルは欠落したまま。窓枠も有りません。
運転台(キャブ)下には1軸の従台車。複雑なパイピングが蒸気機関車の魅力です。
斜め下から前方を見た角度が好きです~。
戦後型のC58の炭水車(テンダー)は船底型。何で背面だけこんなに荒廃しているのでしょう。雨風が当たるから?。吊り上げ用のフックは北海道で活躍した時の名残でしょうか。
テンダー台車はまくらばね形鋳鋼製。
機関助手側にはデッキが付いていて、キャブ内に自由に入れるようになっていました。
開放されている割にはメーター類もチャンと有りました。
焚口扉はさすがに動きませんでしたが、保存状態は悪くありません。
機関助手側から前方を眺めたところ。いつも驚くのは前方がほとんど見えないこと。
さて、今回もう1両の二俣線無煙化当時に遠江二俣機関区無煙化当時に配置されていたC58に巡り合いました。お別れ運転にも使用された当時のエース機、200号機ですが・・・。機関区構内でオブジェと化していました。高山機関区から沼津機関区を経て遠江二俣機関区へ移動。1971年4月に廃車になった履歴は389号機とほとんど同じなのに、その後の境遇は大きな違い。でも他の僚機が跡かたなく解体されてしまったことを考えれば、煙室扉とナンバープレート、動輪が残っただけでも良いほうでしょう。
私自身は新幹線の車内から掛川付近で現役当時のC58を見た記憶はありますが、訪問すること無く無煙化されてしまいました。ただ二俣線無煙化によって志布志機関区に転属になった僚機2両に志布志線で出会いました。1972年11月、南九州は志布志線(現在は廃線)の西都城の町はずれで貨物列車を待ち構えていたら、元遠江二俣機関区の153号機がやって来ました(単機回送でしたが・・・)。本機はその後1973年6月には廃車になっています。
153号機と西都城で交換してやって来た下り貨物は、やはり元遠江二俣機関区の20号機。こちらもやはり1973年8月に廃車になっています。
当時は門デフのC58が撮れなくて残念な思いをしましたが、今となっては貴重なショットになりました。
これで天竜浜名湖線紀行はやっと“完”。
コメントする